18話「パワハラ上司」
<彩葉ツキ>
「はあ~、お腹いっぱい。大井さん、ありがとね。ご飯の用意してくれて」
日が落ちる頃合いに目を覚ました曜達は、エントランス脇のレストランで遅めの朝食をとっていた。
食事の内容は、おにぎりにだし巻き卵、そして漬物と味噌汁。
数日ぶりの温かい料理に、疲れた体がゆるんだ。
<大井南>
「いえ、冷蔵庫にあるものをそのまま温めたり、焼いただけですので」
このレストランは統治ルール開始後に閉店しており、いまは各自が冷蔵庫から食材を取り出して調理する仕組みだ。
<大井南>
「本当に感謝すべきなのは、このホテルの支配人でしょう…
彼女、いつ自分が死んでもいいように色々準備していたみたいですね…」
少し前、曜は大井とともにキッチンへ入った。
整然と保管された大量の食料…
さらに、万一の際にどこから食料を仕入れればよいかをまとめたノートまで見つかった。
<五反田豊>
「私も何度か商談の場でシナプリを使わせていただきましたが、彼女ほど仕事ができる人は滅多にいません。
本当に惜しい人を亡くしたものです…」
卓上に静けさが落ち、誰もが支配人の不在を噛みしめる。
<千羽つる子>
「あ、あの…ちょっといいですか…!」
トイレに行っていたはずのつる子が、小走りで戻ってきた。
かなり急いでいたようだ。
立ち止まる際、つる子はこけかけたが、Qに支えられ、転ばずに済んだ。
<Q>
「どうかしたのか?」
<千羽つる子>
「え、エントランスに一ノ瀬達がいるんです…!」
<黒中曜>
「はあ!? なんだって!?」
<彩葉ツキ>
「なにがあっだら大変だし…は、早くいごう!」
もごもごと口におにぎりを頬張るツキの言葉に、一同は席を蹴るように立ち上がり、レストランを飛び出し、エントランスへ向かった。
<小柄な24トライブ>
「も、申し訳ございません! わ、私のミスです!」
<一ノ瀬一馬>
「…まったく驚かされるな。こんな簡単なことを間違える人間がいるとは。
よもや人間がどこまでくだらん失敗をするか、実例を見せるためにやってるんじゃないだろうな?」
<小柄な24トライブ>
「えっと…」
<一ノ瀬一馬>
「…どうなんだ、おいっ! 答えろ、そこの役立たずっ!」
<小柄な24トライブ>
「うう…そんなことは決して…ぐすっ」
<一ノ瀬一馬>
「おいおいおいおい…そんな顔されたら、まるで私が虐めているみたいじゃないか!
私、傷ついてます! 反省してるからこれ以上は責めないでください! という魂胆が見え見え――」
現場に駆けつけると、一ノ瀬が部下に怒鳴り散らしている場面だった。
叱責を受けているのは、24のトライブの構成員のひとり。
マスクのせいで顔立ちは分からないが、声色や体格から女性と見て取れる。
怯えて震える姿が痛々しく、曜は思わず一歩前に出てその間に割って入った。
<黒中曜>
「おい、何があったか知らないけど言いすぎじゃないか?」
<一ノ瀬一馬>
「おやおや、誰かと思えばゴミ溜めトライブの面々じゃないか」
曜達に気づいた一ノ瀬は、口角をいやらしく吊り上げた。
指先でマフラーを弄り、勝ち誇った笑みをゆっくりと見せびらかす。
周囲の構成員達は息を潜め、叱責される小柄な部下だけが肩をすくめて震えている。
<千住百一太郎>
「トラッシュトライブだぜ! お前、泣いてる女を責めるなんて最低だな!」
<一ノ瀬一馬>
「部下の指導に口を挟むな。今の時代、男とか女とか関係あるまい。女だけ贔屓にしてたら、それこそセクハラだろう。違うか? ん?」
一ノ瀬は肩をすくめ、わざとらしく両手を広げて見せた。
軽く首をかしげる視線には、議論そのものを嗤うような冷たさが宿る。
<五反田豊>
「やれやれ…とんだパワハラ上司がいたものですね。呆れてものも言えません」
<一ノ瀬一馬>
「貴様…見覚えのある顔だな」
<五反田豊>
「私は――」
五反田は懐へと指を差し入れ、名刺入れの蓋を親指で押し上げた。
<一ノ瀬一馬>
「ああ、名乗らなくていい。そんなことで脳のメモリーを消費したくないのでな」
一ノ瀬はしっしと手を払う。
虫でも追うような雑な仕草に、場の空気がささくれ立つ。五反田は動きを止め、静かに名刺入れを閉じた。
<彩葉ツキ>
「ほんっと嫌なやつ! ここは支配人さんが大事にしてたホテルなんだよ! 出てって!」
<一ノ瀬一馬>
「わめくな、そこのヒラ社員。貴様は社長に対して発言する権利はない。
だいたい、今更、あんな死んだ女の話をして何になる? 社長であるこの私の宿泊を、毎度毎度断っていたような奴だぞ?
大方、天罰でも下ったんだろう。社長に歯向かった当然の結果だ」
曜の拳がわずかに震えた。
喉の奥までこみ上げる怒りを嚙み殺し、踏み出しかけた足を辛うじて止める。
<黒中曜>
「自分でクビキリしておいてよくもそんなことを…! ここで何をしていたんだ? 言え!」
<一ノ瀬一馬>
「このホテルは前からナンバーズ1である私に相応しいと思っていてな。
宿泊拒否してきたあの支配人ももういないし、今日から最上階のスイートに泊まらせてもらう」
<彩葉ツキ>
「ほんっと、最低最悪っ!! 無理! 絶対無理!」
ツキの声が跳ね、一ノ瀬は耳元を押さえ、顔をしかめた。
<一ノ瀬一馬>
「まったくやかましい限りだな…
まあいい。ここで出会ったのもなにかの縁だ。貴様らに耳寄りな話をしてやろう」
<黒中曜>
「話だと…? 今さらなんのつもりだ…!」
<一ノ瀬一馬>
「貴様らのことを少し調べさせた。やかましいのもいるが、なかなかに優秀な者もいるようだな。
未来ある若者の命を奪うのは私も心苦しい。そこで提案が――」
一ノ瀬は顎をわずかに上げ、語尾に余裕を滲ませながら、優雅に言葉を紡ぎ始めるが――
<彩葉ツキ>
「絶対に、嫌!!!!!!!!!!!!!」
ツキの叫びは食い気味で、一ノ瀬の言葉をかき消す。
<一ノ瀬一馬>
「まだ私が提案している途中だろうがっ!! …たく、最近のガキは最後まで話を聞かんな」
一ノ瀬はわざと大げさに肩を竦め、こほんと咳払いをひとつ。
先ほどの怒気をなかったことにするように背筋を伸ばし、再び優雅さを取り戻そうとした。
<一ノ瀬一馬>
「結論から言う。私の下につく気はないか? そうすればクビキリはしないと約束しよう」
<黒中曜>
「ここにきて勧誘だと…? 何を考えているんだ?」
<大井南>
「おそらく、仲間割れを狙っての発言でしょう。シナガワトライブに同じことをした時のように…」
ぼそりと、大井は曜の耳元に身を寄せ、声を潜めて告げた。
そうだった…一ノ瀬は、姑息な真似でシナガワトライブを仲間割れさせたやつだ。
曜は、一ノ瀬の外道ぶりに、先ほど抑えたはずの怒りがまたふつふつと沸き上がるのを感じた。
<一ノ瀬一馬>
「どうした、何を迷っている? 貴様らにとっても悪い話ではなかろう?
私のような優秀な人間に仕えれば成長に繋がるし――」
言葉を継ごうとしたその時――バン! 鋭い破砕音が場を切り裂く。
一斉に視線を向けると、大柄な構成員が持っていたスーツケースを砕いてしまい、無残な破片を散らしていた。
<大柄な24トライブ>
「あーーーーーーーー!! す、すみません! すみません!!」
<一ノ瀬一馬>
「それは…私のスーツケースっ!?
貴っ様ぁ、何をしているっ!! それは二度と手に入らぬ限定品だぞっ!」
再び、一ノ瀬の優雅さは粉々に砕け散った。
整った顔が歪み、血管が浮かぶほど怒り狂う様は、つい先ほどまでの気取った社長像を完全に壊した。
<大柄な24トライブ>
「あわわわわ…その、先に部屋に運んでおこうとしたのですが、力を入れすぎてしまって…」
スーツケースを壊した部下は、まるでプロレスラーのような巨躯だった。
常人なら軽々と潰しかねないその体格で、アンティーク調のスーツケースを壊してしまうのも不思議ではない。
<一ノ瀬一馬>
「荷物運びすら、ろくにできんのかっ? 貴様は荷馬車の馬以下か? 馬糞かっ!?」
<大柄な24トライブ>
「すみませんすみませんすみません!!」
<一ノ瀬一馬>
「もういい、部屋でベッドメイキングでもしてろ! 懲罰内容は後で伝える!」
<大柄な24トライブ>
「わ、わかりました。あの、部屋の鍵は…」
<小柄な24トライブ>
「あ、それなら私が…って、あれ?」
一ノ瀬は額に手を当て、深く嘆息する。
呆れと苛立ちの入り混じった声色で吐き出される言葉は、氷のように冷たかった。
<一ノ瀬一馬>
「まさかとは思うが…そんなことは絶対にないと願いながら問うが――貴様…鍵を失くしたのか…?」
<小柄な24トライブ>
「いえその…ちょっと見当たらないだけです!!」
<一ノ瀬一馬>
「言葉の言い換えで誤魔化すなっ! 貴様は鍵の在り処すら記憶できないのか?
それとも脳みそごとなくしたか? 貴様の脳みそも見当たらないままかっ!?」
<小柄な24トライブ>
「す、すみません…」
<一ノ瀬一馬>
「ぜいぜい…少し叫びすぎた…おい、そこの貴様…」
声を張り上げすぎたのか、一ノ瀬の声はかすれ、わずかに息が乱れていた。
<マイペースな24トライブ>
「はいはーい。なんですかー?」
<一ノ瀬一馬>
「返事は一回でいい! ホテルに入る前に、私は何か飲み物を持って来いと言ったな?
それはいったいどこにある? もしや社長には見えない飲み物か?」
<マイペースな24トライブ>
「…あっ、忘れてました」
<一ノ瀬一馬>
「クソ馬鹿がっ!! 貴様は何か? 社長の喉を干からびさせたいのか!?」
<マイペースな24トライブ>
「別にそんなつもりじゃ…」
<一ノ瀬一馬>
「うるさいうるさいうるさい! 言い訳なんて聞きたくないわ! このナマケモノが!!!」
マイペースな構成員は、怒号に肩をすくめて身を震わせる。
だが、その間の抜けた態度は火に油を注ぐだけだった。
曜達はそのやりとりを呆然と見つめ、言葉を失う。
<黒中曜>
「なんなんだ、これ…一ノ瀬の部下はいつもこんなことを言われてるのか?」
<千羽つる子>
「罵詈雑言の百鬼夜行ですわ…。気分が悪くなってきました…」
<痩せすぎな24トライブ>
「ちょ、ちょちょちょちょっといいでしょうか…!
確かにみんなミスをしましたが、色々事情があって…!」
これまで黙っていた痩せすぎの構成員が、意を決したように前へ出た。
曜は、構成員の勇気ある行動を心の中で称賛したが、その膝は震え、背中は折れ曲がり、まるで嵐の中に放り込まれた小動物のようだ。
<一ノ瀬一馬>
「貴様…誰に口を利いているかわかっているのか!? 私は社長だぞ!? 不本意ながら貴様らの上司だっ!!
そんなことすら覚えてられんのなら、近くの脳外科に行ってこい!!!」
<痩せすぎな24トライブ>
「ひ、ひいいいいいいいい!!」
怒声を浴びせられるや、男は頭を抱えて床に崩れ落ちた。
その姿は哀れで、見ているこちらが苦しくなるほどだ。
<一ノ瀬一馬>
「…クソ。クソクソクソクソクソクソクソクソ…!」
ぶつぶつと罵声を繰り返しながら、一ノ瀬は近くのウォーターサーバーへ。
手慣れた動作で紙コップに水を注ぎ、がぶがぶと喉を潤した。
<一ノ瀬一馬>
「なんでこんな簡単なこともできない…!? 無理難題を言っているわけじゃないんだぞ…!?
低能でも、低能同士で仕事をさせれば、多少はマシになると思ったのだが…チッ…! やはり、私以外の人間はどいつもこいつも無能だ…!」
そう吐き捨てると、手にしていた紙コップを握り潰した。
<五反田豊>
「…こんなこと、許されていいはずがありません。私はもう我慢の限界です…!」
その場で一番憤っていたのは五反田だった。
名刺の一件からヤケに大人しいと思っていたが、彼は彼なりに曜と同じく怒りを抑えていたようだ。
顔を真っ赤に染め、怒気をまとった表情は鬼のように険しい。
<大井南>
「いけません! ここで一ノ瀬に目をつけられたら作戦に支障が…!」
<五反田豊>
「では、黙って見過ごせと!?」
<大井南>
「…いえ、ここは私に任せてください」
大井は深呼吸をひとつ置くと、メガネをキリッと持ち上げた。
すぐにタブレットを手に取り、落ち着いた足取りで一ノ瀬へと歩み寄る。
<大井南>
「一ノ瀬さん、少しいいですか? これを見てください。
このホテルの近くにとても腕の良い職人がいるんです、彼に修理させたら新品のように元通りになりますよ」
<一ノ瀬一馬>
「ほう…気の利く女だな。気に入った。貴様だけは早めに私の下に来てもいいぞ?」
つい先ほどまで怒り狂っていた一ノ瀬の顔が、みるみる機嫌を取り戻していく。
唇の端には不快な笑みすら浮かんでいた。
<大井南>
「それもいいかもしれませんね。こうして近くで見ると貴方、とっても素敵ですし…」
大井はわずかに目を伏せ、色気を帯びた声色でおべっかを口にした。
その芝居がかった態度に、周囲はざわつく。
<千住百一太郎>
「ええっ!? あの姉ちゃん、まじで言ってんのかよ…!?」
<彩葉ツキ>
「まあ、一ノ瀬…性格は最悪だけど、顔はいいからね~」
<五反田豊>
「………………」
<Q>
「五反田…? 顔色が悪いが大丈夫か…?」
<五反田豊>
「だ、大丈夫です…多分…」
<一ノ瀬一馬>
「フハハハハ! 優秀な人間は優秀な人間を知るということだろうな!
まったく、うちの役立たずどもに見習わせたいものだ」
しかし、当の本人には、大井の色気がまったく効いていない。
いや、そもそも女性そのものにあまり興味がないのだろう。
一ノ瀬は、自分の能力を褒められたことに気分を良くしたようだ。
<小柄な24トライブ>
「う、うう…がんばります…」
<一ノ瀬一馬>
「ふう…要らぬ社員教育をしてたら腹が減ったな。私は食事をしてくる」
大井の一言がよほど嬉しかったのか、一ノ瀬は上機嫌のまま踵を返す。
さきほどまで怒鳴りつけていた部下達を置き去りにして、軽い足取りでエントランスの外へ消えていった。