13話「墓」
走り続け、遊郭の屋敷の庭に飛び込んだ瞬間、曜はようやく足を止めた。
息が乱れ、肺が痛い。だがとにかく、ここまで来た。
タイガの墓が夜の庭に白く浮かんでいる。
えのきと西郷が掘り続けた穴は月明かりに影を落とし、縁に子どもたちが座っていた形跡が土に残っている。
曜は耳を澄ましたが、芥の足音はもう聞こえない。裏通りの喧騒は遠く、庭に流れるのは夜風だけ。
<黒中曜>
「やっと…逃げ切れたか…」
膝に手をついて大きく息を吐いた。同時に肩の力が抜けていく。
体のあちこちが痛む。腕に残る傷が、じくりと熱を持っていた。
だが、その安堵は一秒も持たなかった。
首の後ろに、何かが当たったと思った直後、大きな手が、ゆっくりと首に回される。
<黒中曜>
「――ッ!」
そのまま曜の体は持ち上げられ、地面に叩きつけられた。
背中に衝撃が走り、声が出なくなった。上から重い体重がのしかかり、視界が陰る。
芥が曜を組み伏せていた。
いつの間に庭に来たのか。足音もなく、気配もなかった。
まるで最初からそこにいたかのように、芥は静かに曜を見下ろしていた。
<芥塵>
「甘いな。オレから逃げれるとでも思ったのか?」
芥の巨大な手が、ゆっくりと曜の首を締め上げていく。
<黒中曜>
「ッ!」
肺に送られるはずだった空気が遮断される。
手を掴んで引き剥がそうとするが、無駄だった。指が全く動かない。
石のような力で、びくともしない。芥は上から曜の顔を見下ろし、ふと視線を横にやった。
タイガの墓とえのきが掘り続けた大きな穴が、そこにあった。
芥の口元がわずかに緩んだ。
<芥塵>
「穴まで用意してあるなんてちょうどいいじゃねえか。
お前のために、誰かが準備してくれてたみたいだぞ」
そう言って、ギリリと首を締める力がさらに強まった。
意識が遠くなり、視界の端が暗くなる。庭の提灯の橙色がにじんで揺れて、やがて輪郭を失っていく。
――終わる。
そんな言葉が頭の中に浮かんできた瞬間――穴の中から、声が響いた。
<???>
「残念ながら、この墓の定員は一人だけだぜ!」
ドガン!!!
という音がした刹那、芥の体が真横に吹き飛ぶ。
曜の首から手が離れ、空気が一気に喉に流れ込む。激しく咳き込みながら、曜は体を起こした。
見ると、穴の縁に人影が立っていた。
赤い髪に大きな体――汚れた包帯が腕に巻かれた男だった。
――この人は、誰だ?
突然のことに曜の頭はすっかりフリーズしていた。
だが、見ず知らずの相手ではあるが、自分を助けてくれたことには違いがない。
礼を言おうとした直後――
男は曜に向かって歩き出した。その足取りはどこかぎこちなかったが、目には光がある。
闘志と言うより、もっと素直な光。外に出ることを待ち焦がれた人間が、ようやく解放されたことを喜ぶような。
<赤髪の男>
「…っしゃ! ようやくオレの出番って訳か? しっかし、師匠はどこだよ?」
怒ったような顔をしていたが目は笑っていた。
そのまま、キョロキョロと辺りを見渡し、曜に目を留める。
<赤髪の男>
「…なんか勢いで出てきちまったけど、お前誰だよ?」
<黒中曜>
「え、ええと…黒中曜だ。今、タイトウトライブの花札さんたちと協力してて――」
<タイガ>
「ああ! お前がトラッシュトライブのやつか!
ちょいちょいNINEで話は聞いてるぜ! オレはミナトトライブのタイガだ。よろしくな」
――タイガ。
その名前を聞いた瞬間、曜は困惑した。
死んだはずの人間の名だ。
上野と花札に、墓まで見せられている。
曜は、不安になって視線を落とした。
墓のすぐそば。
土の掘り返された跡。その中心に、ぽっかりと口を開けた穴。
そこには、不自然な金属製の扉があった。
マンホールのような蓋は開き、その下には、暗闇へと続くハシゴが伸びている。
――なんで、墓の下にこんなものがある?
曜はハッとした。
前に上野が言っていた"時間が必要"というのは――地下で療養しているタイガの回復を待て、という意味だったのだろう。
曜は、フッと笑って、早く三田にこの事実を伝えたいと思った。
そのとき、吹き飛ばされて地に伏していた芥が、ゆっくりと体を起こした。
コキコキと首を鳴らし、服の埃を払う。その目が、タイガを見て三日月のように細くなった――
面白いものを見つけた、という顔だ。
<芥塵>
「こいつは驚いたぜ。穴から骨のあるやつが出てきたな」
タイガは芥と正面から向き合った。
タイガは包帯を外して、拳を構える。
<タイガ>
「お前が芥塵か。師匠と、やっさんから話は聞いてるぜ。
殺し屋上がりのナンバーズで、ここのチャンピオンだってな」
<芥塵>
「へぇ。知ってて出てきたのか。たいした度胸だな」
<タイガ>
「当たり前だろ。
殺されそうになってるやつがいるってのに、見て見ぬふりできるかよ」
芥がじっとタイガを見つめる。久しぶりに面白いものを見つけたという目だった。
<タイガ>
「それじゃいっちょ、お手並み拝見といこうじゃねえか」
<芥塵>
「はっ、おもしれえ! やってみろ!」
それだけ言って、体を沈めた。
タイガが強く踏み込み、拳での一撃が芥の肩口を直撃して体が揺れた。
これまでの十数日間で、トラッシュトライブの誰も入れられなかったような反応を芥が見せ、曜は息を飲んだ。
だが芥は倒れなかった。その代わり、顔に笑みが戻ってきた。
<芥塵>
「ほォ、いいねえ」
今度は違う声色だった。さっきより、ずっと楽しそうだった。
<芥塵>
「もう一発来い。今のじゃ足りねえ」
タイガが歯を食いしばり、踏み込む。続けて三発、四発と強く打ち込む。
芥はそれをすべて受け、体を揺らしながらも倒れない。だが、その目はどんどん真剣さを増していく。
<タイガ>
「お前、手を抜くなよ」
<芥塵>
「抜いてねえよ。ちゃんと受けてるぜ」
<タイガ>
「嘘つくな。来い。ガードばっかしてるなんてタマじゃねえだろ?」
タイガがそう言い放った直後――芥の動きが変わった。受けをやめて、反撃に転じる。
腕が薙ぎ、タイガが一歩後退する。それでも踏みとどまり、すぐに前に出た。
ふたりが激しく打ち合う。曜にはとても介入することができなかった。
そこへ、庭の外から足音が重なって聞こえてきた。
三田が、カズキが、ミウが、花札が、上野が――トラッシュトライブと上野と花札が、庭に転がり込んでくる。
全員がぼろぼろで、息が上がっていた。
<青山カズキ>
「曜くん! よかった、無事だったんだね」
<黒中曜>
「あ、ああ…それよりも、タイガさんが…」
曜が指さし、全員の視線がそちらに集まる。
<桜花札>
「げっ、あの野郎、勝手に出てきやがったのか!」
<上野弥次郎兵衛>
「やれやれ、言うことを聞かないのは師匠譲りですねえ」
花札と上野は苦笑しつつも、タイガが楽しそうに戦っている姿を見ている。
<彩葉ツキ>
「え、タイガさんって…えええええええええ!?」
ツキが庭の中央で芥と戦うタイガを見て、大声を出した。
同時に、トラッシュトライブ全員が動きを止めた。
タイガは死んだと聞かされていたのに、それなのに、こうして激しく芥とやりあっている。
その事実をすぐには受け止められなかったのだ。ただし、ふたり以外は。
<雪谷えのき>
「あ、タイガだー! 久しぶりー!」
<西郷ロク>
「やっと出てきたか…」
<千羽つる子>
「おふたりは、全然驚いておりませんね。烏白馬角なことだと思いますが…」
<雪谷えのき>
「えー? あたし、ずっと掘ってたんだもん。そりゃ出てくるでしょー」
えのきがタイガが生きていたことを知っていたとは、思えなかった。
だが、彼女は信じていたのだ。
タイガは生きていると、夜になると月が出るのと同じくらい当然に。
えのきの後ろでは三田が口を開けたまま固まっており、唇をわなわなと震わせていた。
<三田三太郎>
「タイガ…! タイガじゃねえか!」
絞り出すように言ったその声は震えていた。
<青山カズキ>
「ま、彼がそんな簡単に死ぬわけないと思ってたけどね」
カズキがニヒルにそう言ったが、その口調はどことなく嬉しげだった。
ミウは静かにその場に立って、タイガの戦う姿を見つめていた。
<タイガ>
「ちっ…!」
互角にやり合っているように見えるが、主導権を握っているのは終始、芥だった。
タイガは攻め切れず、ついに体勢を崩す。
その瞬間、芥は軽やかに後ろへ跳び、余裕をもって距離を取る。
<芥塵>
「面白え! お前、強いな。気に入ったぜ」
<タイガ>
「当たり前だ。オレの師匠は、最強だからな!
最強の師匠にしごかれたら、弟子も最強になるってもんよ!」
花札が腕を組んだまま短く息を吐いた。
その横顔には、普段の飄々とした色はなく、安堵と照れが混ざっていた。
上野はそんな様子を見て静かに微笑んでいた。
三田が一歩、また一歩と踏み出し、タイガに向けて語り掛ける。
<三田三太郎>
「おい、タイガ…お前、やっぱ生きてたのかよ!」
その声は問いかけというより、確認だった。
三田の目はすっかり赤くなっている。
タイガが振り向き、三田を見た。それからにやりと笑った。
<タイガ>
「みっちゃん! よお、久しぶり! 心配かけたな!」
<三田三太郎>
「心配かけたな…じゃねえよ! このバカ野郎が!」
三田が拳で目元を押さえた。それ以上は何も言えないようだった。
そしてその場に、誰も口を開かない時間が流れ、しばらくしてから一同が上野と花札を見た。
<青山カズキ>
「ねえ…どうして、タイガくんは死んだなんて説明をしたんだい?」
上野が頭を掻きながら続ける。
<上野弥次郎兵衛>
「タイガさんほどの強者が生きていると芥に知られれば、傷が癒える前に必ず狙われます。
あいつは強い者の気配に敏感でしてね。だから、死んだことにして地下で療養させていたんですよ」
<桜花札>
「まっ、怪我を治療するついでに修行もさせたけどな。
タイガの野郎…オレが前に修行つけてやったとき、途中で逃げやがったからな」
<三田三太郎>
「じゃあ、あの墓は…」
<上野弥次郎兵衛>
「目くらましですよ。
まさか、えのきさんと西郷さんが毎日掘り続けるなんて思っていませんでしたけどね」
――やはり、そうだったか。
"時間が必要だ"という上野の言葉の意味が、曜の予想と一致し、思わず口元を緩ませた。
曜は上野を見る。視線を受けた上野は、わずかに頷いた。
それ以上、言葉はなかった。
ただ、その沈黙だけで、十分だった。